90年代に端を発する音楽ジャンルの無効化
ここ15年、音楽のカテゴリーについて、
- 細分化しすぎて逆に統合されていっている
- 少し離れていた存在として認識されていたものがくっつく
- 全然違う方向性のものが結果同じような形態になる
という現象があるように見える。
もはやジャズじゃないかというポストロックとその逆パターン、ヘヴィメタルのようなテクノ…書き出し始めるとキリが無い。
別に全く問題ないし、その分、複雑なパターンで音楽を楽しめてむしろ歓迎している。
あえて言えばリスナーとしては売り場障壁があって探すのが大変ってことくらい。
それでそうした境界線のグレーゾーンにいる音楽は一時期はジャズが引き受けたり、クラブミュージックが引き受けたりって感じだった。今は大きく看板をあげてジャズが引き受けている時代。
そうした流れの中で、日本のミュージシャンたちも含めて大きく影響を与えている人物について今一度再考しようと思う。
80年代後半くらいにクロスオーバーロックとかミクスチャーロックとかで一時期ロックが引き受ける時期があった。
その流れの最終期ぐらいに出てきたバンドがスクリーミングヘッドレストーソス”Screaming Headless Torsos”というバンド。
※厳密にいえばこの後、ミクスチャーロックはリンプビズキットやリンキンパークあたりを指す言葉になり、ヘビメタmeetsラップを指す言葉になる。90年代半ばまではもっと複雑なゴッタ煮のロックをさす
スクリーミング・ヘッドレス・トーソス
スクリーミング・ヘッドレス・トーソスは1995年にdiscovery recodsからバンド名と同タイトルのアルバムをリリースしていて、このアルバムは日本でもメジャー流通として拡散していた。
内容はジャズ、ファンク、ヒップホップ、ロック、レゲエ、ハウスその他を生の人間が演奏していた。私は当時20歳くらいだったが、もうとにかくこれをよく聴いていた。
”Blue in Green”や”Jack Johnsonのテーマ”などのマイルスデイビスの楽曲に歌詞をつけ、とてつもないアレンジで披露していた。バンドに参加しているミュージシャンも興味深いメンツ、、、そんなバンドだった。
このアルバムでドラムを叩いているのはジョジョ・メイヤーJojo Mayerというスイス出身のドラマーで今やドラムキッズは誰でも知っている存在である。彼はその後、自身のNerveという、エレクトリックミュージックに大接近しているユニットを続けている。
ダニエル・サドウニックDaniel Sadownikというパーカッショニスト、フィマ・エフロンFima Ephronというベーシストはそれぞれが数々のレコーディングやライヴのサポートに参加している。彼らの参加した作品のディスコグラフィーは膨大な数になる。
ヴォーカルのディーン・ボウマンDean Bowmanがまた変態的な発声で独特の存在感を示していた。
そして、このバンドのリーダーとしてプロジェクトを進めていたのがディヴィッド・フューズ・フュージンスキーDavid “fuse” Fiuczynski。独特のアーミングやエフェクターの使い方、アウトしたフレーズ、エネルギッシュなリフで個性を爆発させるギタリストだ。
フューズはエリック・ドルフィーに憧れてジャズを志し、10代でライヴで観たブーツィ・コリンズに圧倒されてファンクにも影響を受けたという。その後、音楽探索家として様々な音楽を探るようになる。
ギタリストとしての影響は2000年に私がインタヴューした時に「ジョン・スコフィールドのフレージング、スティーヴ・ヴァイのアーミング、フレッド・フリスのクラスター、他にもアラン・ホールズワース、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・マクラフリン、、、、」といったギタリストについて語っている。当時はフレッドレスネックとのダブルネックギターを導入しはじめており、世界中のマイクロトーンを含んだスケールの研究をしていた。日本や中国のペンタトニック、インドのラーガなど、とにかくスケールというスケールを収集していた。
一方でパンクロックやエレクトリックミュージックにも食指を伸ばしており「無限に音楽を貪るミュージシャン」という印象だ。
怪人フュージンスキー
彼の経歴を眺めると、近年のジャズの傾向を先取りしているような気になってくる。
ジョージ・ラッセルのビッグバンドでギターを弾く、ミシェル・ンデゲオチェロのバンドに参加する(他のトーソスのメンバーも多数参加)、ジョン・メデスキーとのユニットでアルバムをリリース、ジョン・ゾーンのバンドにも参加(録音なし)、ハシディック・ニュー・ウェーヴというクレツマージャズバンドのメンバーとして活動、、、、、etc
まったく節操がないがやっていることは基本的にフュージンスキー風でしかないのが特徴だ。
他にもKifという中近東や中国のスケールを多用したプロジェクトをやったり(沖縄出身の名ドラマー中村亮さんが参加)、ビリー・ハートのグループに参加時は相当ジャズなプレイも見せていた。そうした活動歴は何か痛快さがある。
自身の2000年にリリースされたソロアルバムは1曲目がパット・メセニーの”ブライト・サイズ・ライフ”で他にもエリントン、ショパン、ジョージ・ラッセル、チック・コリア、ジミ・ヘンドリックスなどをカヴァーしていた。その解釈には原曲をよく知る人は聴くと吹き出し、その他の人は何かとてつもなく個性的なものを発見したと嬉々とした。
その後バークリーの教授になった(たしか2002年頃)のでたくさんの日本人留学生が彼の教鞭を受けている。“彼がバークリーに行ったからボストンを目指した”という人もいるし、影響について多くは語らない人も多いが、実際に現在のシーンにおける影響は計り知れないのではないか。
そして彼のマイクロトーンの授業はとても人気のある講義であるとも聞く。さらに彼が教鞭を握っているのが「ジャズミュージシャンの登竜門である」ということも現代のジャズが今、どういう位置にあるのかということがよくわかるだろう。
2002年ぐらいから少しずつ醸成され、この15年でジャズ自体の意味合いがとても開かれたものになっている部分に対しての彼の影響が大きいことは推して知るべしだ。
日本では上原ひろみのソニック・ブルームに参加して一躍知名度をアップした。フジロックでも弾きまくった。
そうした活動と併行して、研究を続けてきたマイクロトーンを使ったジャムプロジェクトを続けていていてアルバムも複数リリースしている
彼のミュージシャンのスタイルについて98年頃にNYで共演した経験もあるベースフューチャリストの今沢カゲロウ氏(通称ベースニンジャ)は「すごく抽き出しが多く幅の広いジャズギタリストという印象」と語ってくれた。
今の彼は否定するかもしれないが、もし今沢氏の言葉を借りて彼がジャズギタリストであるとしたらジャズの定義という部分での拡大、または破壊という点でスクリーミングヘッドレストーソスの登場から22年、その要素と効果は計りしれない。
そして今まで地下で蠢いていたものがこの5年で大きく地表に吹き出しているのではないか。
そのスクリーミングヘッドレストーソスはまだ活動中だ。
現在はフリーダム・ブレムナーをヴォーカルにダニエル・サドウニック、そしてフューズのユニットになっている。
アルバム『Cord Red』では政治的な話題にも積極的なフューズらしいシニカルな世界観とエネルギッシュなロックが展開されている。惜しくも亡くなったファンククラヴィネットのレジェンド、バニー・ウォレルBernie Worrellがゲストで参加している曲も収録。
バニーのクラヴィのようにギターを弾きたいと発言もしていたフュージンスキー。実はバニーのバンド、Woo Worriarsで来日したこともある。そのバニーのPファンクでの愛称が魔法使いだったように、フューズもまた魔法使いのように音を操る。
もう一つ、彼の音楽についてとても魅力的で、示唆に富んでいるなと思う点がある。
それはどういったスタイルも平等に扱い、それらが接着されていくことだろう。
彼の音楽は世界の融和の可能性、オープンマインドの持つ可能性を未だに放ち続けているのだ。
文:鈴木りゅうた
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