75年生まれのジェイソン・モラン
ジェイソン・モランは1975年生まれのピアニスト。
ちょっと怖そうな風貌、自由でエッジの効いた演奏でどちらかというと玄人好みな存在だ。
ジェイソンのお父さんが、もともとかなりの音楽好きで相当のライブラリーを所有していたそうだ。
それでも最初に買ったレコードはヒップホップのレコードだったというから、親の持ってるものに合えて関心を示さないのは時代性かもしれない。
もろに自分とは同世代なので勝手に“そりゃそうだよな”とか思っちゃう。
その後しばらくするとたいがいはそのライブラリを勝手に聴き漁る。
その中でお父さんのライブラリにあるセロニアス・モンクの演奏に完全にやられて、ジャズを演奏するようになった。
彼は割と裕福な家庭に育っていて、アカデミックな音楽教育を順調に受けている。
そう、あの見かけは意外にフェイクだったりする。
90年代末には自己名義でブルーノートからアルバムをリリースしている。
多分、私が最初に聴いたのは、グレッグ・オスビーの作品か、ドン・バイロンの作品だったと思う。
緊張感のある演奏をするピアニストだなというのがその当時からの印象。
幅広い共演者たち
共演者は幅広く、チャールズ・ロイドやスティーブ・コールマン、カサンドラ・ウイルソン、デイブ・ホランド、クリス・ポッター、などなど。
70年代生まれらしいスタイルに対するおおらかな感覚がある。
2007年くらいに丸の内のコットンクラブにトリオで来日公演を行なっていて、それを見に行った。
その時、意外と正統派の演奏を高い緊張感でするピアニストという印象を持った。
当時からのレコーディング作品ではもっと自由な雰囲気を出してたので意外だった。
全然和やかでもなく、ハードボイルドな風貌と相まって”この男、怖そうだな”と思った(笑)。
山にこもる修行僧が正装して現れた感じ。
演奏が終わるとまた山に戻るというような風情。ピアノのスタイルとして様々なものを試している感じだった。
鍵盤上をサルベージするように音を探る。その中で古典的なストライドピアノのスタイルをみせたりもする。
ジェイソン・モランはたぶんすごく、美意識の強い演奏家なのではないだろうか。
毎回アルバムのジャケットからビシっと決まってアートしているし、作品はすごく自由でありながら、ある種のちょっと悪そうな迫力が必ず乗っている。
その上で自由な精神を感じさせる。演奏に対して自分の中で徹底した客観性があるというかそんな感じがある。
自ら弾くピアノの演奏を弾いたその場でじっくり聴いているような。
ファッツ・ウォーラーのトリヴュートをミシェル・ンデゲオチェロのプロデュースで作り上げた『All Rise:A Joyful Elegy for Fats Waller』ではポップで親しみやすい感じになっていた。
さっと転換できるのは、彼自身の中に“ここではこうするのが良い”という強い意思を感じるのだ。
それともう一つ、あの帽子ファッションとか、唐突な感じはセロニアス・モンクの影響なのだろう。
2017年はスガダイローさんとガチンコのピアノデュオも魅せたり、昨年は3枚アルバム出したりもしていてちょっと面白い感じも実はある。
最終的にはとらえどころが無い。そこが魅力でもある。
10年ぶりくらいに見るジェイソン・モラン・トリオ
今年に入って、ジェイソン・モランがトリオで来日するというので、やっぱり10年ぶりくらいに見ておこうと思った。
それでブルーノート東京の2日目セカンドセットへ行ってきた。
ドラムはナシート・ウエイツで以前に見た時と同じ。
ベースは以前見た時は今ロバート・グラスパー・トリオでベースを弾いているヴィセンテ・アーチャーだった。
今回はタラス・マティーンが来て、レギュラーでの演奏だ。
まずこのトリオはパワーがある、ということをまず思った。
バンドワゴンなんて言っているが、ワゴンというか5トントラックくらいは馬力がある。
ジェイソンの音はデカイ。
いや、でかい音を出せる。
ナシートも同じだ。
二人とも細かいニュアンスをパワーのコントロールを繊細に行なって出せる。
こういう演奏を聴かされるとある種のパワーは正義かもしれないと思わされる。
力があるからこそ、それを小さく制御出来る。
タラスは二人の間を縫ってウネウネとエレアコベースを弾く。
3人が仕掛け合いをしながら曲はどんどん膨らんで行った。
途中、ジェイソンは、山下洋輔ばりの肘打ちで打鍵したり5分くらいずっと鍵盤の3分の1のところをグリッサンドしずづけたりした。
グリッサンドをし続けた曲では「やばい、手が痛い。もう手がぼろぼろだよ。でもいい音を出すためにはしょうがないでしょう?美しい音楽とはこうして作っていくしかないですから(笑)」と曲が終わった後に語っていて、しかも楽しそうだった。
実際、バンドワゴンの演奏は最高に楽しかった。
ジェイソンは自分のやりたいようにピアノを弾いていて、能の世阿弥の言葉を借りれば守破離で言えばもう離にいるのかもしれない。
徹底したそれぞれの存在に対する肯定感がある。
世の中はいろんなことが起こるけれど、柔軟に乗り越えていこうという音楽だった。
モンクのカバーも演奏して、それがまた自由。
メンバー二人も「そういくのね。じゃあこうするよ」という感じで駆け引きを楽しむ。
それが音楽としての立体感を生んでいて、即興の深みへどんどん降りて行くのだが、崩壊はせず、客席も巻き込んでいく感覚だった。
オリジナル曲はシリアスだったりもするのだが、そういう瞬間にはすでに観客は音楽に没入しているのでもっともっと彼らの音を求める感じになっていた。
現在のトランプ政権による、排他的な政治に対して皮肉を言っていた。
ジェイソンのピアノには、いろんなものを認め合い、自由を鼓舞する想いがある。ミュージシャンがそうした発言をすることをよく思わない向きは日本ほどではないがアメリカでもある。パット・メセニーがトランプ政権批判をしたら、文句言われてたっけ。
しかし、メッセージのある音楽はかっこいいと自分は思う。
事実、ジェイソンの音楽は骨太でカッコいいし、そのアティチュードも演奏に出ていて、そこは切り離せない。
「音楽家は政治的発言はするな」という言葉はバカバカしいな、と思った。
みんなもっと自由でいていい、そう思わせる夜だった。
自分自身ももっと自由に突き詰めていこう、そう思わせる演奏だった。
(文・写真/鈴木りゅうた)
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