サックス奏者のトップランナーとして
ダニー・マッキャスリンは世界最高峰レベルのサックス奏者の一人。
さまざまな音楽への柔軟な適応力、楽器の操作能力を背景に、明快さを失わずストレートなアプローチも、危険なハーモニーの中でも存在可能である。
がっしりと大柄な体躯から繰り出す豊かで滑らかな音色を駆使し、どのような音楽にも寄り添える瞬発力も備えている。
60年代生まれの彼は圧倒的な技量をそなえながらも、今ひとつ、そのネームバリューを、サックスファン以外のマニアックな領域から引き上げることが出来ずにいた。
90年代ではステップスアヘッドなどのネームバリューのあるプロジェクトにも参加してた。
しかしそのポジションはそれによっては変化はなかったようだ。
ほぼ同世代には我が道をゆくマーク・ターナーがおり、上にはブランフォード・マルサリス、下にはジョシュア・レッドマンというスター達に挟まれている。
こんな中に紛れても、ミュージシャンによる彼への評価は圧倒的に高い。
しかし、そこから脱しない。
これがおそらく2000年代までの評価だろう。
エレクトリック路線へ
そんな中、マリア・シュナイダーのオーケストラへ参加し、自身のソロ活動では、アンサンブルの方向性をガラッと変える。
ラテンテイストの次はエレクトリックなビートミュージックにかなり寄せたところへ舵を切った。
アルトサックス奏者のデビッド・ビニーらが彼に影響を与えていた可能性がある。
彼はダニーの朋友的存在でもあるが、90年代末から、サンプラーなどをライブに持ち込んだりしていた。
この界隈のミュージシャン、例えば今もダニーと演奏するベース奏者のティム・ルファーブルなどは速い段階からエレクトリックミュージックへのアプローチを試みている。
そうした流れは2000年代にある。
これはなかなか表にでていないものも多い。
クラシック作曲家を研究するウリ・ケインや、後にパット・メセニーとも共演したトランぺッターのクオン・ヴーなどもそうした一角である。
数え上げると90年代末〜2000年代にはそうしたミュージシャンが数限りなく存在する。
そうした様子を時にはステージをともにしながら見ていた影響は多いにあるだろう。
しかし、ダニー自身はこれに積極的には関わっていなかったように思う。
実際、ダニー・マッキャスリン作品には2000年代前半はまだエレクトリックなビート路線の気配はない。
2003年くらいのマンデイ満ちるの日本ツアーにダニーが動向した時に実際に演奏を見ている。
この時もソプラノサックスを巧みに吹くプレイヤーという印象だ。
王道のフレーズ、がっしりとした体格、なめらかな音色は特筆するものがあった。
とにかく歌心があるということが残っている。
実際にエレクトリックに全面的に振ったのは2010年代に入ってからだろう。
そこは後発の強みなどもあったように思う。
またそれを支える新しい才能や、活動をともにするジェイソン・リンドナーの機材への理解度の進歩なども影響して、「斬新な作品」という立ち位置ではなく「密度の濃い作品」という方向性で結実した。
マーク・ジュリアナなど彼より2世代ほど若い才能あふれるミュージシャンの助力も得て、また一つ違う地平に彼を置いたように思う。
アンサンブルで使用される音色のバラエティは格段に増え、リズムのバリエーションも拡大した。
一方でスリリングなフレーズの追い込みは少し抑えられている。
プレイヤー目線の一部のファンはこのあたりにもっと可能性があるとよんでいた向きもあるかもしれない。
しかし、これによって音楽的な表現者としてのアイデンティは確実に獲得した。
マリア・シュナイダー〜デビッド・ボウイへ
たしか2012年だったと思うが深夜、テレビCMにデビッド・ボウイが出てきた。
彼の新曲とともに。
それがすごくインパクトがあったので覚えている。
これはマリア・シュナイダーとボウイとの共作で、そこで思ったのはボウイは再び生演奏に可能性を見いだしているのではないかと感じた。
その時にダニーと邂逅し、その後に『★』をリリース。
多くの部分でダニーとそのバンドメンバーがこのアルバムで活躍し、ダニー自身も大きくネームバリューをアップさせた。
私のボウイへの印象は「ちょっと先にいくプロデューサー的アーティスト」というものだ。
まだ注目を集める前のスティーヴィ・レイ・ヴォーンをレコーディングに呼んだりしており、ミュージシャン以上に目利きとしての彼を評価する声は大きい。
彼は決してバリバリのイノヴェーターではなく、これから行きそうな何かをさっとピックアップし自分風に見せる。
そうした彼の網に「人力」による表現が再びかかった。
しかし、リリース後にボウイが急逝したことで自然とダニーがその遺児的な扱いになったのだった。
デビット・ボウイの遺児とサックス奏者の生存戦略
2018年にリリースした『Blow.』は管楽器的タイトル以上にデビッド・ボウイを全面的に意識した内容だった。
70年代〜2010年代までの、その断片を縫合しながら、サックス奏者としてのエゴも満たすべく多重録音して作り込んだ。
結果、楽器の楽しさも伝えつつ、ボーカル曲もふんだんに入れてとても幅広い層にアプローチできる内容で完成している。
一方で“すこしボウイを意識し過ぎかもな”とも思ったのだった。
生き残りをかけるライヴ
年が明けて今年。
2月に来日するという。
そこでダニーをサックス奏者として非常に高く評価する某氏とともに観に行くことにした。
実は前回の来日公演も見ていて、その時のイメージがあった。
しかし、今回はヴォーカル兼ギタリストをメンバーに加え、大胆にヴォーカル曲を全面に押し出した。
ダニー自身はステージを俯瞰して、サックスをどう加えて吹くかに尽力している。
なめらかなフレージング、甘いトーンはある。
しかし、フレーズを追い込んで、アドリブの巧みさなどで見せる場面は無い。
あきらかにサックス奏者として主役であろうとはしていないのである。
あくまで自身の音楽全体をどう出すか、デビッド・ボウイの遺産をどう生演奏の場にいかすのか。
そこに凄まじい熱量で全力をかけていると思った。
むしろそこにはジャズの今までの流儀は捨て、サックス奏者としてどう生き残るのかという熱いものがあった。
「一人のプレイヤーとして難しいアドリブを巧く吹きこなすだけでは生き残れない」
そんな思いを感じさせるライヴだった。
そういう意味で、ライヴ終了後のホスピタリティ溢れるファンへの対応含め、「勝負に出ている」と思った。
もはや演奏をこなすだけでは表現者として生き残れないという現実が確かにある。
これをトップランナーである彼がステージで見せるのは衝撃的だった。
楽器奏者としてどうあるかは人それぞれだ。
ダニー・マッキャスリンは彼のやりかたで全力で走っている。
そして、この方向性の先に何を見いだすのか。
我々は今後、どんな音を彼から受け取るのか。
この後、どう彼が自身の路線を持っていくのか、興味深く見守りたい。
(文/鈴木りゅうた)
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