求道者マーク・ターナー

現代ジャズのアプローチを築いた男

 

カートの来日から1週間でこの男のリーダーライヴを体験できるとはなんとも贅沢な時代になった。

マーク・ターナーは1965年11月生まれ。オハイオ州の出身で現在51歳ということになる。

バークリーを卒業後1990年にニューヨークへ進出。もっとも移住直後はタワーレコードで働いていたキャリアもある。

彼の存在を認知したのはアルバム『In This World』くらいから。なので、自分は特段に古いファンというわけではない。

曲の内面にずるっと入り込むような美しさと彼のダークでどこか神秘的なサウンド。メロディックでありながら妖しさもただよう演奏に惹かれてそれ以来愛聴しているテナー奏者の一人だ。

この作品でカート・ローゼンウインケルの存在も知った。その後の『Dharma Day』もよく聴いたし、振返ればもうかれこれ20年近くフェイヴァリットということになる。なんというかいつ聴いても時間軸を越えており、古いとか新しいということを感じさせない。

自分が思うに、どうやらこの辺りの世代はマーク・ターナーを橋頭堡にしてコンセプトを共有している節がある。

マークの朋友カートはもちろん、ブラッド・メルドー、ジョシュア・レッドマン、ブライアン・ブレイドなど、この世代の代表格がハーモニーやアドリヴ時におけるコードの分解、作曲時のコード進行などではコンセプトをシェアしているのではないかと感じている。

もちろん、それぞれに独自性があって全てが同じではないが。

とはいえ、マーク・ターナーには派閥の領袖という雰囲気は一切無い。
たたずまいはまるで僧正のようだ。

しかも、いつも特にコマーシャルなことをするわけでもなく、あくまで自らのプレイを極めて進んでいくような感覚。

この姿勢がまた殊更格好よくもあり。


指切断事件、そして復活

マークは『Dharma Day』の後にメジャーから離脱。

2000年代はジェフ・バラード、ラリー・グラナディアとコードレスのFLYが主立った活動としては日本に聴こえてくるという状況だった。

一方で後進のミュージシャンからの共演を熱望する声は多く、様々なところで独特の存在感を出していた。

例えばギラッド・へクセルマンなんかの作品にも登場する。それで元気にやってるのかなと思っていた。

しかし、実は2009年に大事件があって、薪をチェンソーで切っていたら指を二本切断(!)。

ただ、対処が適切だったらしく4ヶ月後には復帰(!!!!)。

もはや人知を超えていて、しかもその演奏には翳りが無い。

当時、アーロン・パークスのTwitterでその情報を知ったのだが、想像すると他人の指でもうろたえるような事件だ。

マークの奥さんは人類学者であり精神科医でもあるということ。そしてマーク本人も何かいろいろ超越しているのだろう。すごい

そして、純粋に1リスナーとしては還ってきてくれてよかった。

ビリー・ハートやギラッドのアルバムでの演奏は素晴らしい。その後、2014年に自身の名義でトランペットのアヴィシャイ・コーエンを相棒にピアノレスのカルテットでECMから『Lathe Of Heaven』を久々にリリースしている。

実は自分は基本的にワンホーンだけの完全ソロ演奏作品やコード楽器のない演奏は正直、割と聴いていて疲れてしまう。
だが、マークの演奏だけは別腹だろう。演奏が単音にも関わらず、ハーモニックな印象があって、つい聴いてしまうのだった。


なんというか、マーク・ターナーという男について語り出すと終わらない気がしている。なのでこのぐらいにして、別の機会に譲ろう。

いずれにしてもマークは90年代末から、彼の影響を良くも悪くも受けない、考え方としてその方法を取らない、ということも含めると一つのベンチマークとして、特にホーンプレイヤーとしてはとても大きな存在と言えるだろう。

さてそんな彼が自身のリーダーライヴでやって来ると聞いて、「これは行かねば」と思い、同じくマーク愛好仲間の音楽家Aへ連絡することに。

Aも非常に素晴らしいホーンプレイヤーでもあり、作曲などに対する熱意が高い男なのだ。当然、私との会話の9割はマーク・ターナーの奏法についてである、、、

ということは決してない。

とにかくAとは古い付き合いなのだ。そして管楽器の奏法にも明るく、このライヴを観に行く仲間としてこんな心強いことはない。

Cotton Club 入り口。ギラッド・へクセルマンとの来日ぶりに見るマーク・ターナー

観に行ったのは4/20の1stセット。

「本当は何回か行きたいくらい」というAの意見は最もだと思う。

メンバーもドラムスのマーカス・ギルモア、ベースのジョー・サンダース、ギターにラーゲ・ルンドと最前線の若手が揃っている。

マーカス・ギルモアはこの世代のドラマーとしては個人的にすごく注目していている。まだギアをもう一段残しているのではないかと思っている。

そのドラムはどこか超越していて、曲に入り込むほど瞑想して、俯瞰して曲を見ているのではと思わせる不思議な感覚がある。

また音色に対するリテラシーが異常に高いのか繰り出されるサウンドが芯があって抜けがよく、かつ美しい。

ライドのレガートの早さと粒立ちの良さだけでトリップする感覚があるが、メトリックモジュレーションや拍のはみ出し、レイドバック、スウィングなどどれもレベルが高い。ちなみにロイ・ヘインズの孫というのは有名な話。

ジョー・サンダースはファッショナブルな出立ちでオーセンティックな演奏からコンテンポラリーなアプローチもいける。文字通りブイブイ言わせているベーシストだ。

わかりやすいところだとジェラルド・クレイトンのアルバムでもベースを弾いている。いや、もっといろいろ出てくる。とにかく売れっ子ベーシストの一人だ。

ラーゲ・ルンドはポスト・カート世代の中では様々な方向性のツボを抑えていて、万能な感覚がある。割とオーセンティックなプレイを中心に組み立ててくるプレイヤーという印象だが。実はライヴは初めて見る、と一緒にくる3人も非常に楽しみなメンバーだ。

ライヴはみんなが時間になるとさっと登場して始まった。

始まって数分経つと「ああ、、、」と口をアングリと観ている自分に時々気づく。

マークのテナーの音色の奥深く、ダークでしかも美しい演奏はセイレーンの笛のようだった。

ソロのアプローチも長い音符から段々刻むというものとは全然違う。

極端に言えば6連、8分、3連、2拍3連みたいな組み立てになっていたり、フラジオを盛上げるために使うのではなくてその音色と音高のために吹くといった風情で移り変わりの美しさは特出している。

演奏自体は歯切れのいいパキパキしたものではなく、アタックのピークが少し後ろにあるのでヌメっとした印象になのだが、そこがまたカッコいいのである。

ある友人はこのヌメッと歯切れの悪い感じが好きではないようだが、彼の演奏がドライヴしていく感覚のスリリングさは独特の浮遊感がある。

どうやら彼のこの特徴はその音色の深みを出すために分厚いリードを使っていることが一因なのだそうだ。彼ほどの技量だと演奏の現場によって使い分けるという方法もあるが、一切そうはせず自分の音色と演奏を磨いている。

この日の共演者たちも素晴らしく、開演直後にジョー・サンダースは床一杯に譜面を広げて訳が分からなくなっていたが、演奏に入るとそのスタイリッシュさに勝るべく時にタイトにリズムに張り付き、時にメロディアスに楽曲を盛上げ、時には浮遊感を出すべくポイントを持ち上げたりしていた。

マーカス・ギルモアはジャングルの観光ガイドのようなファッションだった。しかし、初っ端から抜群の集中力で刻み、飛ばし、跳ね、様々な波動を操っていた。

このパルスの気持ち良さはハンパじゃない。

ラーゲ・ルンドはなぜかイントロで頭を抱えて30秒ほど動かないところを目撃した。しかしその演奏はすばらしく、ピアノのようなヴォイシングや、少し複雑なアプローチからサックスのカウンターパートなど全方位型のサポート体制。基本能力の高さを感じた。

なんというかとにかくギターがコントロールされている。

例えばジュリアン・ラージがテレキャスターをシャブリつくすギター小僧なら、もっとジャズマンな印象。ハードバップ的なところとカート以降の感覚をミックスしているという感じだろうか。

最後に”Myron’s World”というマーク・ターナー定番の楽曲を演奏していたがフレットをそんなにストレッチせず弾く瞬間もあり、その個性も十分楽しめた。

とにかく見終わった後は思わず大きなため息が出た。これが指を繫ぎ合わせた人の演奏なのだろうか。そして今51になるマークがまだ進化している。

音楽の可能性の無限を感じた夜だった。

文・写真:鈴木りゅうた


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