カテゴリの功罪
2017年に入って今のところもっとも興味深いトピックは「麻婆豆腐はカレー説」というものだ。
麻婆豆腐もスパイスをベースに組み合わせられていて、これは一つのカレーの亜種なのではないかという論法。こうして考えていくといろんなものが幅広い分布を見せていて面白い。カテゴリー分けはいろいろな発見を与えてくれるし、深堀りする場合には後から誰かの耕した荒野を走るものにとってはすごく役に立つ。海図みたいなもので、新しい島や知らない場所へたどり着けるかもしれない。
そう思う一方でもし麻婆豆腐をカレーとした場合、「カレーが嫌い」と考えている人に「麻婆豆腐」を食べるチャンスを奪うかもしれないし、逆にカレーは嫌いかもと考えていた人が中華が好きで麻婆豆腐と出会って好きになったらカレーにもチャンスが広がるかもしれないし、逆に「ああ中華にもカレーはあるのか」となって結局食べずに終わってしまうのかもしれない。
そうして考えるとカテゴリーで分けるということは便利である反面、人に先入観を植え付けるものでもある。人間は言葉に縛られて生きているので、その縛りを解くにはその言葉をより深く分析しなければいけないし、カテゴリーやジャンルに対する態度ということをもう少し慎重に皆で考えていかなければいけないのかもしれない。
私としてはカテゴリーはあってもいいと思う。
ただ、それが原理主義的に正義不正義、優劣の判断基準にされると窮屈だし、そういう世界は望んでいない。
たとえばカレーニューウェーブ的な自由な発想の世界が面白い。
そうした感覚は音楽でも同様なのである。
はみ出してカテゴリしずらいものとかはむしろ好物だ。
ベッカはとりあえずジャズコーナーに
それで話は飛んでベッカ・スティーヴンスです。
私が彼女の存在を知ったのは多分2013年くらいなんでむしろ遅いほう。
フォーキーなサウンドでクリアな良く通る声。そして確かな歌唱力。ルックスも良くて、どんどん人気のシンガーになっていった。
この『Weightless』でSealのカヴァーを唄っていて、難しい歌をサラッと簡単に聴かせる。彼女が歌うとメロディが一筆書きのようにサッと描かれるのが不思議な魅力だ。
認識としてジャズの人というふうには思わなかった。
ただその後、youtubeなどを含め見ていくと、ジャズもありの人なんだなと理解した。
実際、今、元気な若手のジャズマンたちとの交流もとても深い。
それで今年、彼女がリリースした『Regina』がスナーキーパピーのマイケル・リーグなんかもプロデューサーに入っていてどんなアルバムなのかなと聴いてみた。
エレクトリックなテイストに変わっていながら、フォーキーなテイスト溢れるサウンド、声の透明感や歌唱のわかりやすさ、それを裏打ちするテクニックはそのままにサウンドがゴージャスになっていた。
これは”何か知っている、すでに聞いたことある感じもするな”と思ってピッと記憶から引き出されたのはエンヤだった。“もう2010年代のエンヤだなこれは!”と。
そんなこのアルバムを気持ちよく聴いていたがこれ、ジャズコーナーで売られている。
日本のマーケット範囲はジャズ、しかし音楽はそこを超えている。
広義の意味でジャズでもあるが、もっとポップスとしてカテゴリーを超えたところで受け入れられる音楽ではないだろうかという議題が浮かんだのだ。
一方でジャズ側の市場としてはマーケットの可能性を広げている部分で彼女の存在をもっと歓迎すべきところなのではないだろうか。
今はジャズ界隈は越境が本当に多い。言葉の解釈がここ15年、どんどん拡大していて、他のカテゴリーの音楽を摂食してどんどん刺激的な音楽を生んでいる。カテゴリー分けの結果、そこからこぼれてマーケット的に受け止められない部分をジャズが引き受けている側面がどんどん増大している。
たとえばこのアルバムにも参加するマイケル・リーグ指揮するスナーキーパピーはカテゴリ不明の存在で、とりあえず日本ではジャズコーナーで売られるがもしかしたらもっと別のマーケティングをすればもっと跳ねるかもしれない。
今、利便性をあげるインデックスが、何かの可能性を消してしまっているのかもしれない。
現代社会は特に情報過多の時代に中身を吟味せずインデックスを読み飛ばす時代。
しかし、実際には中身に触れてみないとわからない。
この複雑な現象はいつも起こりつづけてきた。たとえばノラ・ジョーンズに対して「あれはジャズじゃない」ということで否定的な態度を取るパターン。しかし、その”ジャズじゃない”は重要なのだろうか。という以前にいろいろ損をしているし、博物学的に分類していくと系統樹としてジャズの配下にいないのだろうかとも思う。また評論する側としても、ジャズの果実という見方はできないものなのだろうか。
つまるところ”ジャズじゃない”は”少なくとも自分の知ってるジャズじゃない”という程度の意味しかないのだろう。
原木を見ているだけではやはり絶滅してしまうだろうし、そもそもジャズは、もとい音楽は混血を繰り返す。
枯れる問題は内にも外にもあるのかもしれない。
それで7月の末にそのベッカ・スティーヴンスが来日しライヴを行なったので観に行った。
鍵盤、ベース、ドラムにベッカというメンバー。
シンプルな編成、と思った。しかしこのバンドが非常に強力で
まずとにかく鍵盤のリアム・ロビンソンもベースのクリス・トーディニも楽器も歌もやたらうまい。
それで主役のベッカもフレンドリーなステージングがなかなか魅力的かつ、歌はまたこれがうまい。ギターやウクレレを弾きながらあくまで”ベッカ・スティーヴンスの音楽”という感覚。ギターは曲ごとに積極的にチューニングを変えて、歌に合うチューニングを研究している様子は非常に面白かった。
そして技巧に終わらず、世界観もドーンと提示していくのでライヴつるっと面白い。急に会場に歌わせたりもする。
ある程度のインプロも含んでいるし、フォーキーな感じもあるし、フォルクローレぽさもあった。そしてアイリッシュぽさも感じる。
それで最後はスティーヴィー・ワンダーのカヴァーで締めるのだから。
今までのアメリカポップス史の上に屹立しているというか、流れの中に自然に存在する感じだった。
そして何となく予感したのは、こうした小箱で見ることは今後できなくなるかもしれないなということ。
開かれた音楽だなというのが大きな感想。
もっといろんなリスナーが彼女の音楽を気に入るのではないか、そんな予感からカテゴリーが彼女の音楽を求める人の障壁にならないのだろうかと疑問が湧いたのである。それでジャンルという本当は壁ではない存在に改めて考えさせられたのであった。
(写真・文:鈴木りゅうた)
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