Quite Saneからのメッセージ〜アンソニー・ティッドへのインタヴュー後編

Quite Saneの音楽構造が数学的である理由は単純に数字を用いている、ということはティッド自身の言葉からもわかる通りだ。実際に、独特のアクセントを用いたフレーズの繰り返し、変拍子、ポリリズムなどが理路整然と並ぶ。一方で、それぞれの要素は一つの場所から来るのではなく、それが調和している。

こうした構造はアンソニー・ティッドが影響を受け、また自身がベーシストとして参加するスティーブ・コールマンの音楽にも見られる。後半でのアンソニーの言葉の多くは、Quite Saneの情緒的な側面に触れている。その一方で根底に見えるのはM-BASE的な音楽が、表現しているものを理解することのきっかけを多く含んでいる。

また、今を生きる我々にとって、当然でもあり、忘れてはいけないことも彼の言葉には含まれている。

困難を抱える人々のリアル

このプロジェクトのメッセージとしての中心テーマの一つは、個人の出自や環境によって生活条件が固定化され、そこから脱却することがいかに困難であるかという点にあるように思われます。これは今や明らかに世界的な問題であり、近年その加速は著しいものがあります。
新作でもこのテーマが根強く残っているのは、その継続性だけでなく、近年のこうした環境による固定化の加速という感覚にも関係しているものなのでしょうか?

「あなたの視点はまさにその通りです。実際のところ、私が書いている物語は、私が知っている、あるいは知っている多くの人々の現実の姿です。そして、両作品(『The Child of troubled times』、『to kill the child of troubled times』)の中心人物であるショーティは実在の人物ではありません。彼は一つの概念です。

 アメリカにはこの作品のなかで語られている物語を、実際に体験した人が何百万人もいるでしょう。そして自分はショーティが曲ごと、あるいは章ごとに同じ人物であるという必要性はないと思っています。聴く人それぞれの状況によって、このショーティというキャラクターは変わります。

 なぜなら、その根底にある経験は、非常に多くの異なる人々によって共有されているからです。そういう意味で、ショーティは固定された人格というより、“鏡”のような存在といえるでしょうね。

 同時に、自分たちは今、本当に「独立した一人の人間」でありたいと願う人々にとって、選択肢がどんどん減っている時代を生きているとも感じます。何らかの大きな集団に属し、皆と同じように考えることへの圧力が非常に強くなっている。そしてそれは奇妙なことに、ジャズ界隈の内部でも起きていると思うんです。

子どもという連続性の象徴とボールドウィンの視点

さらには作品全体を通して「Child、Children(子ども)」という言葉が繰り返し登場します。これは単に人類、あるいは生命そのものの未来を担う存在を指すのかもしれませんが、この言葉を用いた背景にある概念や意図についてお聞かせいただければ幸いです。

「このアルバム全体のコンセプトは、かつてジェームス・ボールドウィンJames Baldwinが語った、ある言葉を軸にしています。

それは『子どもたちは常に私たちのものなのです。世界中のすべての子どもたちが。そして私は思い始めています――このことを認識できない人間は、おそらく道徳というものを持ちえないのではないか、と。」という言葉です。

そこにはもちろん「子どもたちは未来だ」という基本的な理解があります。子どもなしに未来は存在しませんから。“子孫”という概念そのものが、人類が時間の中で自らを未来へ延長していくという“連続性”の思想と本質的に結びついているものです。

しかし、ボールドウィンがそこに付け加えているのは、さらにもっと深く、さらに本質的な考え方です。彼は「他者化(othering)」という概念を拒絶しています。彼のいう他者化とは、子どもたちが自分とは別の人種、階級、国家、あるいは共同体に属しているという理由で、子どもたちが受ける苦しみや虐待を自分たちとは切り離して考えられるという発想です。ボールドウィンはそれを拒絶しているのです。ボールドウィンは、そうした分離する考え自体が虚構だと言っています。そうではなく、彼らは常に「私たちの子どもたち」なのだ、と。

私たちには、すべての子どもたちを守り、育み、大切にする集団的責任があります。彼らがどこから来たのか、誰に属しているのかとは関係なく。その考え方こそが、このプロジェクト全体の感情的・哲学的中心に置かれているものであり、最終的にアルバムの結末へ向かう理由でもあるのです」。

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寄り添う子どもが印象的な1stアルバムのジャケット

変化するメディアと時代

前作のリリース当時、インターネットは既に存在していましたが、サブスクリプション型の配信は事実上存在せず、音楽メディアの商業構造は現在とは大きく異なっていました。そのため前作でのメインのフォーマットはCDでした。今回のプロジェクトはEP三部作として、レコード(ヴァイナル)とサブスクリプションでリリースされました。こうした決定は、戦略的なものだったのでしょうか。それとも直感的なものだったのでしょうか?

「自分はSault✳︎の大ファンです。彼らがアルバムをヴァイナル限定でリリースする決断をしたのは、本当に見事でした。あのアイデアは極限まで突き詰めていましたよね。彼らは作品のデジタル・マスターさえ削除したという話まで聞きました。

同時に、自分は『Stranger Things✳︎』のようなテレビシリーズやリミテッド・シリーズが「連続的なリリース」と「観客の期待感」などの面で成し遂げていることにも強く惹かれていました。だから、自分はその二つのアイデアの中間のどこかに存在するようなものを作ろうと試みた結果がこの3部作です。

最初のヴァイナル版リリースは、意図的に非常に限定的なものにしました。映画で言えば、劇場公開のような感覚です。その後により広いデジタル・リリース――いわばストリーミング配信に近い形式での発表を続けて行いました。それを一年かけて展開し、各チャプターを個別に公開していきました。

アルバム自体も、ヴァイナルのために特別に作曲しています。本来は、曲間の切れ目なしに、3つの面を連続した流れとして体験することを想定しています。テンポ感、曲順、トランジション、そのすべてが、そのリスニング体験を前提として書かれていました」。

✳︎Sault ロンドンの謎多きファンクコレクティヴ。アルバム『NINE』を日数限定で配信しその後、LPのみ販売されている。

✳︎Stranger Things NETFLIXで配信されている人気SF番組

伝統の核を見失わず新しい形式を探す

参加しているミュージシャンについて教えていただけますか?例えば、サックス奏者のメリッサ・アルダナMelissa Aldaanaは前作の制作当時はまだ「子供」だったと言えるでしょうし、ドラムのシーン・リックマンは引き続き中心的な役割を担っています。個々のレコーディングへの参加の有無に関わらず、まるで20年にわたる航海に従事する乗組員がいるかのように、ここには継続的な歴史的連続性を感じます。

「はい! まさにその通りです。このアルバムのメンバーは、自分の中で現代に生きる最高峰のミュージシャンたちの一部です。彼らこそ、いまなお「ジャズ」と呼ばれている音楽の最前線を体現している存在だと思っています。

ジャズの伝統から生まれ境界線を押し広げるプレイヤーたち

 2人のサックス奏者ミゲル・ゼノンMiguel Zenónとメリッサ・アルダナは、ほんの一握りの人しか到達できない、あるいは今後も到達しえないレベルで、ホーンという楽器を完全に自分のものにしています。

ミゲル・ゼノンとマイルス・オカザキ。ミゲルはラテンフレーバーの強いリーダー作を、マイルスは、彼独自のジャズ感があるリーダー作をリリースしている。

 シーン・リックマンは驚異的なテクニシャンであるだけでなく、彼の“ポケット”――グルーヴの深さや収まり方は正直、この世のものとは思えないほどです。

様々なリズムに対応しつつ、グルーヴィーなドラマー、シーン・リックマン。自らのプロジェクトではギターを弾き歌うことも。


コカイKokayiは、フリースタイルと即興的コンポジションに関して言えば、本当に唯一無二の存在。
マイルス・オカザキMiles Okazakiは完全に怪物級のギタープレイヤーです。それに、間違いなく現在もっともユニークな音楽的声を持つ一人です。
そしてローリン・テレーズLaurin Taleseは、“シンガーのためのシンガー”とでも言うべき存在です。多くの歌手が「大人になったらこうなりたい」と願うタイプのヴォーカリストでしょう‥‥。

Kokayi.インテリジェンスかつエネルギッシュなラップは唯一無二。スティーヴ・コールマンにフィーチャーされ、ヴィレッジ・ヴァンガードでパフォーマンスをした初めてのラッパーでもある。

 紹介をはじめると言葉が止まりませんね……たぶん、自分が彼らを本気で愛しているのが伝わってしまっていることでしょう(笑)。
でも、参加してくれたメンバーについては、もっと大きなポイントは別のところにあります。それはここに関わる全員が、深いジャズの伝統から生まれてきたミュージシャンであり、その系譜に対して大きな敬意を抱いているということです。
そして同時に、この作品のようなスタイル上の境界線を押し広げるプロジェクトに対し、積極的に参加することを選んでいる人たちであるということです。

自分にとって、それこそが常にこの音楽の本質でした。進化すること、リスクを取ること。そして伝統の核となる原理を捨てることなく、新しい形式を見つけ出していくということなんです」。

音楽に乗るのではなく音楽の内部で機能する人の声

 先ほど、「Phonetic Vowel Correlation(音声母音相関)」など構造的な韻と音列の関係の話をされていましたが、複数のボーカルラインがベースやドラムなど他の楽器と構造的に絡み合っているだけでなく、実際に言語そのものの持つ音が、音楽構造に組み込まれているようにQuite Saneでは聞こえてきます。これはこのプロジェクトの特徴の一つであると私は思います。このようなアプローチはどこから生まれ、どのように洗練されてきたのでしょうか?

「正直に言うと、このアプローチがどこから来たのか、自分でもはっきりわかっていません。

 ただ、自分は昔から、声というものをアンサンブルの中で他の楽器と対等な存在として聴いてきました。だから常に、ヴォーカリストのためにも、バンド内の他の楽器と同じように曲を書きたいと思っています。
 ここで言っているのは、作曲上の優先順位の話です。つまり、“ヴォーカルが音楽の上に乗る”のではなく、“ヴォーカルも音楽の一部である”ということです。全体の音色やオーケストレーションを構成する一要素として存在してほしいんです。

 もちろん、こうしたことを考慮する結果、一緒にできるミュージシャンの候補は非常に限られてきます。大半のヴォーカリストは、この種の音楽を歌うことができないか、あるいは単純にやりたがらない。
同じことはMCやラッパーにも言えます。ある種のリズム的柔軟性、ハーモニーへの理解、そして単にアンサンブルの“上に乗る”のではなく、その内部で機能しようとする意志を要求します。

 自分はこうした点に関して、深くバッハの影響を受けています。バッハが声のために書いた音楽は、信じられないほど洗練されています。それでも声部は作曲全体の構造の中へ完全に統合されています。

 歌手たちは音楽から切り離された存在ではなく、その織物の中へ編み込まれています。こうした考え方は、ずっと自分の中に残り続けています」。

次に目指すのはあらゆる編成へ対応する音楽

このプロジェクトは、様々なレベルで相当なエネルギーと献身を必要とするように思えます。また、私も、音楽はもとより、あなたが作品の中で提示しているメッセージに強く共感するリスナーの一人として、今後の展開に期待を寄せています。

「今は新しいアルバムに取り組んでいます。そして、それは続編ではありません。
この次のプロジェクトでは、“柔軟性”という領域へさらに踏み込んでいくことになると思っています。おそらく、もっと幅広い編成を含むことになるでしょう。

 その中心にあるアイデアは、トリオからフル・ビッグバンドまで、どんな編成でも演奏可能になる曲を書くということです。

今の自分にとって特に興味深いのは、規模や編成が変わっても、その作品固有のアイデンティティを保ち続ける作曲を行うことなんです。
このアイディアはAtelier Harlemのレジデンシーで探求し始めたことの延長でもあります。あの時はメンバー編成が絶えず変わっていましたが、それでも音楽の核となる意図は失われませんでした。

 それと別の視点では、自分は簡潔なアルバムを作るという考え方もすごく好きです。昔のレコードのように、最大でも42〜45分くらいになるように。
こうした制約には何か美しいものがある。テンポ感や曲順、そして”本当に必要なものは何か”を慎重に考えなければならない。自分はそうした規律性が大好きなんです。

そして正直に言えば……単純にヴァイナルが大好きなんですよ!

様々なものが共存する社会を我々は許容できるのか

Quite Saneは、まだ日本での公演はなく、未だマニアックな存在といえるかもしれない。

一方でティッドが関わる音楽自体は、それなりにポピュラリティを得ているものもの少なくない。
そのうえで、彼が時を経て、Quite Saneという媒体を通して表現しているものは、音楽を通した文化の併存と融和、そしてすべてが個性を維持したまま、調和することができるということ。また、子どもという存在を通し、様々な環境を生きる人がいるという社会的なメッセージ、ということはインタヴューからもよく理解できることと思う。

また、今回、ティッドの言葉から、自分はM-BASEの音楽というかスティーブ・コールマンの音楽を通した哲学がすっと理解できた。M-BASEでは各楽器が異なる拍子やアクセントを内包したリズムパターンを演奏することがある。また、ことなる調の捉え方で各楽器が奏でることもある。これがそれぞれの公倍数で出会ったり離れたりすることで、独特の浮遊感を演奏に生み出す。曲は速くて遅い、明るくて暗い、というような不思議な楽曲に仕上がる。これが独特の中毒性のある音楽になる。

Quite Saneの音楽にもこの要素があり、その上で言葉という要素も強いため、はるかに親しみやすいわけだが、多くの部分で、ファイブエレメンツの音楽と共通する。

こうしたことを通して、スティーブ・コールマンやアンソニー・ティッドは、世界や調和を表現しているのではないか、ということに気がついた。皆が同じ必要はない。しかし、それはあるタイミングで出会うことができる。また、出会わなくても合奏は成立する、ということなのだろう。

コールマンはよく重力や周期という言葉を使うが、物事を始めると、物事を引っ張るような、なんらかの重力のようなものがあったり、誰かほかの人と出会う周期のようなものがあったりする。もちろん毎日、毎年も周期があるわけで、そうしたことを解明するべく音楽に取り組んでいるのだろう。

「日本でもライヴしたい」とアンソニーはいう。その周期はどこかでくる。そして、そこに向けた重力場も少しづつ強くなっていくことだろう。

それぞれの特性や嗜好を生かしながら共存することをこの世界は実現できる、そんな奥底に秘められたメッセージが20年を経てQuite Saneの活動を再開させたアンソニー・ティッドの言葉の奥から聞こえてくる。

写真提供:Atrier Harlem

(インタヴュー・翻訳・文・鈴木りゅうた)

このインタヴューの前編はこちら

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